【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(3)

日本会議沖縄県本部 特別顧問
中地昌平

終戦を病院で迎えた私でしたが、同時に行き場を無くした状況でもありました。軍の病院には長居できませんし、元々住んでいた大阪は空襲で焼けてしまっています。しかし、大分県に母と妹が疎開していることがわかり、しばらくそこに身を寄せました。着るものもなく、病院服で家族に会いに行ったときは、とても驚かれました。お互いに「命があってよかったさぁ」と励まし合った覚えがあります。

戦後、わけのわからない状況の中で大変でしたが、知り合いを頼って京都まで行き、もう一度学業に専念しようと、立命館大学の法経科に入学しました。しかし、当時はすごいインフレで物価が高騰して生活が苦しく、働きながら大学に通うのも限界がありました。疎開していた母や妹の生活も困窮していました。そして、このままではいけないということになり、大学を中退して、私は母や妹と一緒に沖縄に帰ることにしたのです。ここでも私は、幸運に見舞われました。母と妹が「疎開」をしていたからこそ、私は一緒に帰れたのです。十四歳で大阪に渡って以来、久しぶりの「故郷・沖縄」でした。終戦から約三年後のことです。

まず、最初に訪ねていったのは、戦前にお世話になった砂糖の卸売商店の親父さんでした。親父さんは、激戦地となった真壁にいましたので、生きているかとても心配でしたが、親父さんは奇跡的に生きていました。会った瞬間、親父さんの顔がパーッと明るくなったのが印象的でした。「こいつは生きていたか!これでまたやれる!」という感じでした。
その時、私は大学生らしく「角帽」を被っていました。あの当時、角帽を被って復員してくるのは私くらいで、どん底の沖縄では輝いて見えたのか、「すごい奴が帰ってきたらしい」というような扱いを受けました。

沖縄に帰ってすぐ就いた仕事は、軍の仕事でした。軍の通訳や、琉球海運の代理店業務などをして、生計を立てたのです。当時はとにかく英語をやらないといけないと思い、収容所の入り口に張り付いて、米兵の話す英語を盗み聞きして、英語力を鍛えたものでした。それぐらい必死だったのです。

そして昭和二十六年、民間貿易が再開されたのを機に、私は砂糖屋の親父さんと一緒に沖縄農興商事を設立し、本格的に商売人として歩み出しました。しかし、戦後の心労がたたってか、五年後に親父さんが亡くなってしまい、私が跡取りとなって社長になったのです。ここから私の「製糖の道」が始まったのでした。

(全五回を予定しています)