【オピニオン】[中地昌平特別顧問]沖縄、先達の歩み(1)

日本会議沖縄県本部 特別顧問
中地昌平

私が生まれたのは大正十三年三月十六日、那覇の松山町でした。

そもそも中地家は、関ヶ原の合戦で石田三成率いる西軍につき、合戦の敗北後は各地を転々としながら鹿児島まで避難しました。そして、慶長十三年ごろに鹿児島から沖縄に渡り、首里王家の渉外官のような仕事をしていたということが記録に残っています。私で十一代目になります。

私の父は明治の時代に出稼ぎで大阪に渡り、様々な仕事をしていました。ただ家はとても貧乏で、仕送りも途切れ途切れだったのかもしれません。

実は、そのころは名字が「我謝」でしたが、名前を憶えてもらえないなど大阪で商売をやるのに不便だったらしく、躍起になって改姓運動をしていました。そして、蔵重久沖縄県知事の時に改姓が認められ、県知事のアドバイスもあって先祖の中から「中地」という姓を選び、中地姓を名乗るようになったのです。

現在の那覇商業高校と松山公園の敷地に、戦前は「松山尋常小学校」というのがあり、私はそこに通っていました。当時の小学校には二宮尊徳像が必ずあり、学校に入る時は銅像に一礼してから入るように教えていました。礼節や道徳をしっかりと教える教育がなされていたのです。

その後、久茂地にあった「那覇尋常高等小学校」に二年間通い、卒業してすぐ黒糖の卸問屋に出仕して給仕などをしていました。

当時、沖縄の黒糖は日本中で需要が多く、製糖業は非常に盛んでした。毎日黒糖がお店に運ばれてきましたが、当時はトラックなど普及していませんので、具志川などの農家が黒糖の入った樽を十四、五個ほど馬車に乗せて、一晩かけて那覇に運んでくるのでした。私は毎朝その黒糖樽を受け取り、数や量を帳簿につけるのです。
そして、黒糖樽を倉庫に運んだ後、物産検査場にいって、黒糖の検査申請をしました。検査官から黒糖の質に応じて等級をつけてもらうのです。店の親父さんは商売上手で、等級が悪いと色々文句を言って等級を上げてもらったりしていました。

検査官から等級をつけてもらった後糖商組合で正式な印をつけてもらい、港に運んで入札にかけて、本土の卸売業者に引き渡すというのが私の一日の仕事でした。

約一年間その砂糖屋で仕事をしていましたが、ある日、父と一緒に大阪に行っていた兄から連絡が来て「大阪なら今よりもたくさんの給料がもらえるから、こっちにこい」と言われました。それで、私も一緒に沖縄から大阪に出稼ぎに行くこととなったのです。

その頃の日本は、既に満州事変が起こり、まさに支那事変が起ころうかという激動の時代に入っていました。
(全五回を予定しています)