【オピニオン】防人の眼差し(4)楚辺吉川原海岸

④読谷村・楚辺吉原海岸

第4回は、読谷村の楚辺吉川原海岸にある壕をご紹介します。

前回までは米軍上陸地点の南側である北谷町の戦跡をご紹介しましたが、北側の読谷村も、最初の戦闘があった地点の一つです。

この壕は、海岸の崖に作られた壕になります。恐らく自然にあった壕に、陣地用に手を加えたような造りとなっており、入り口の左右には銃眼のようなものが確認できます。満潮時には水が入り込むので、干潮時にその全容を見学することができます。

実はこの壕は、読谷村の調査でも、どのような意図で作ったのか、実際の戦闘で使われたかどうかも不明となっています。戦後の戦史資料や配置図を見ても、読谷側の海岸に配備されたのは都屋~渡慶次間となっており、楚辺は外れています。外観も大規模な攻撃を受けたような跡はないように思われます。

壕の入り口。左右には銃眼が見える

謎の残された陣地壕となっていますが、私の勝手な推測では、南部島尻地区の防衛を強化する計画に変更する前に、北・中飛行場の正面海岸を防衛するために造られたのではないかと思います。

前回記述した通り、第32軍による当初の計画では、第24師団を北・中飛行場及び海岸防衛に充てていました。しかし、第9師団を台湾防衛のために抽出することとなり、計画変更を余儀なくされます。第9師団抽出後も、第44旅団で中頭地区を防衛しようと計画しますが、最終的には南部島尻地区に主力を集中させることとなりました。

壕の中に入ると空気が一変し、当時の雰囲気が漂っています。左右の銃眼は中から覗くことができ、読谷から南側の海岸と、遠くに宜野湾や前田高地の稜線を望むことが出来ます。

近くには楚辺地区の慰霊塔があり、

「くにのため/あだなすなみに/みをとして/いそべにねむる/みたまとうとし」

という鎮魂の想いが込められた素晴らしい和歌が刻まれています。

戦闘の有無は別として、防人の護国の気概を今に残す貴重な壕です。

楚辺地区にある慰霊碑

楚辺吉川原海岸(読谷村楚辺1925)

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